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心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(徒然草)
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こんばんは。紫遠です。

実家に帰省している頃から、よく「最低だ!」という言葉を口にするようになった私。
あまりいい言葉じゃないので言わないように心がけてはいるのですが、
一度ついてしまった口癖って、なかなか直らないんですよね・・・






さてさて。ぼちぼち4日目以降も書いていきたいと思います。

もはや読んでもらうのが目的ではなく、私のために残しておくという感じですね。
物忘れがひどい私にとって、ここまで1日1日を細部まで書きとめておくのは珍しいし、
特に経験したことがまあアレなので、できるだけ残しておかなくては、と。




<4日目>

6時に起床。朝食はおにぎり、昨夜の残りのつみれ汁、卵焼き。
いつものようにガスコンロを使う朝の光景がとても新鮮に見えました。
ちなみにこの朝食で食べたおにぎりは、
前日に姉が炊き出しの残りとして持ち帰ってきてくれたものでした。
感謝感謝。

この朝、ついに水道管に溜まっていた水を使い切り、水道からは一滴も出なくなりました。

朝から父も母も姉も出勤。
せっかく電気が通っても、やはり節電をせねばと思い、
テレビは見ずにラジオを聴いて過ごしていました。

ちなみにこの日、私の住む市が計画停電エリアになっており、
昼間の4時間ほど停電が行われる予定だったんです。
せっかく電気がきたのにまた停電かよ・・・と思いつつも、
いやいや他の地区ではまだ電気の供給が行き届いてないのだから、
またちょっとぐらい我慢せねばと、待ち構えていたんです。

ところがどっこい。いきなり「茨城県は計画停電エリアから外す」との報道が。
嬉しいやらがっくりしたような。
でも考えてみたら、この日私の市で電気が復旧してたのってほんの一部の地域だったんですよ。
後日姉から、電気も復旧してないのに計画停電するってどういうことだ、って、
復旧してない地域からの苦情がだいぶ出てたという話を聞きました。
東○電力さん・・・バタバタしてるのもわかるけど、ちょっと無計画すぎやしませんかね。

昼食は残りのおにぎりと冷凍食品の唐揚げ。
初日に食材を持ち出したとき、発泡スチロールの箱に冷凍・冷蔵食品詰め込んで運び、
それを丸一日近く外に出してたので、冷凍食品が溶けてしまったんですよね。
なのであまり日持ちしないだろうそれらをぼちぼち食べていかなきゃ、と。

午後4時頃。
昨夜の風呂のお湯(既に水ですが)と沸騰させたお湯を手元で混ぜ合わせながら、
それを体にかけたりして、髪と体を洗わせてもらいました。
髪は5日も洗ってなかったので、久々の洗髪はとても気持ちよかったです。
ただ、あまりにも脂がひどかったので、シャンプー1回じゃ落としきれず、
水が貴重な中で申し訳ないと思いつつ、2度洗いしました。
やー、シャンプーがぜんっぜん泡立たなかったんですよ1回目。びっくり。

夕食はうどん。暗くなる前の夕食ではなく、照明のついた中での食事は久々で、
うどんも温かいし、光もあるしでほんわか心が暖まる気分でした。

この日だったか前日だったか、姉から「水道復旧は1週間後」と言われました。
電気があるだけマシと思いつつも、あと1週間は長いな・・・と落ち込んだり。
公務員が身内にいると、ラジオでも流さないような身近な情報が伝わってくるので、
ちょっと姉様様だなーと思ったりしましたがやっぱり公務員になろうとは思いません。

夜。リビングにすいた布団に入りながらテレビを見る心地良さは格別でした。
ただ、みんなテレビを見ながら寝落ちするので、
誰かが責任を持ってテレビと照明を消さなきゃいけないのが大変でしたが。

もはや余震はあって当たり前なのでいちいち書きません。





<5日目>

朝6時に起床。朝食は炊飯器で炊いたご飯。おかずは適当に。

父が出勤する前に屋根のビニールシート張りをしようということになり、
2階のベランダに出て父と母と私とで作業をしていたのですが、
途中で私の目に違和感が出て、鏡で目を見ると白目が黄色く変色。
母に見せたら2人で大騒ぎ。急いで眼科へ行くと花粉症と診断されました。

処方された目薬をさすと次第に症状はよくなっていきましたが、
もう二度とそうならないように、と母から外出禁止令を叩きつけられました。

父と姉は早々に出勤。母も眼科から戻ってきてすぐに仕事場へ向かいました。
しかし母、出勤して1時間で帰宅。
なにやら「原発の影響で外にいるのは危ないから帰れ」とお達しがあったのだそう。

昼食は昨夜のうどんの残り。

午後から妹と母の2人が、給水所まで歩いて水をもらいに行きました。
私も行くと行ったのですが、朝のこともあり外出を許してもらえずに留守番でした。

ここいらの地区の給水所は実家から歩いて10分程度なのでとても近く便利でしたが、
近くに団地があるために他の給水所よりも相当混雑していたようです。
しかし母と妹が行った時間には人はあまりおらず、すんなり水がもらえたのだそうです。
よかったよかった。

夕食はカップラーメンでした。
そろそろ食べるものにも限界を感じ始めた頃でした。





<6日目>

朝食は冷凍にしておいた餅。

朝食後にホームベーカリーで食パンを焼き始めました。
このホームベーカリー、私が実家にいない間に購入したものらしく、
私が帰ってくるたび出来上がったパンを父が振舞ってくれていたのですが、
実際に私が焼くのはこれが初めてでして、焼きあがるまで4時間かかるんですが、
その間ずっと出来上がりが楽しみでそわそわしてました。

例のごとく父と姉は出勤しましたが、母は休みで家にいました。
朝、祖母宅から井戸水をもらい、母は手洗いで洗濯をしてくれました。
脱水だけは洗濯機にかけ、出来上がったものを私が干してました。
外出禁止令どうなったんだと思いつつも妹が手伝わない子なので仕方ありません。
メガネとマスクを着用し、メガネの曇りを我慢しつつ干してました。

午前中のニュースでアパートのほうで震度6強という地震があったらしくびっくり。
遅いとは思いつつも「大丈夫だった!?」と一斉送信しました。
みんな何ともなかったようで安心です。

正午になる頃、母と妹と私で給水所に水をもらいに出かけました。
ところが給水所に人がおらず、「今日の給水は行いません」との貼り紙が。
水がもらえないよどうしようと思いとぼとぼと帰宅。
まさかと思い、水道の元栓を開き蛇口をひねると水が出てきました。
水道復旧。ついに電気水道ガス全部使えるようになった日でした。
今夜はゆっくり風呂に入れる、ととてもホッとしました。

昼食はご飯と小さなインスタントラーメン。
小さなというか、なんというか、あの味つきの麺だけのやつですが名前がわからないです。
あれ何ていうんですか?大きめのマグカップサイズぐらいの大きさのやつです。

昼食後、スーパーが開店しているという情報を聞き、さっそく行ってみました。
びっくりするほど品薄。あんなにも棚に何もないのは初めて見ました。
レトルトやインスタントの食品は高い商品を除きほぼ無く、
果物は防腐剤の使われた柑橘ばかり。魚も肉もあまりありませんでした。
スーパーは2ヶ所行ったのですが、片方は余震のため入場制限してました。

スーパーへは車で行ったのですが、道がとにかく混んでまして。
というのも、まず実家からスーパーなどのある市街地へ出るには川を渡るんですが、
その川にかかる橋が3つのうち2つが通行止になってしまったんです。
そのため橋を渡る車が集中し、そこでとても混雑してました。
次にガソリンスタンドに向かう車が行列を作っており、
そのせいでガソリンスタンド以外に向かう車も渋滞に巻き込まれるハメに。
ガソリンスタンドへの行列は本当にひどかったです・・・
多分ニュースとかで見たことあると思いますけど、まさにあんな感じでした。
後日行列で死者も出てしまいましたし、燃料不足はかなり深刻でしたね。

夕食は炊き込みご飯、味噌汁、りんごでした。
スーパーでりんごを買ったのですが、生のものを食べるのは久しぶりでとても美味しかったです。





とまあ、3日分の記事はこんなもんですかね。

地震は津波も余震も建物の倒壊も怖いですけど、
その後も被災地で生活していかなければならないというのがとにかく大変ですよね。

でも、その辺は被災地にいるみんながちゃんと理解しているので、
自分勝手な行動をする人はいませんでした。
まあ、たまにはいましたけど、一斉にみんなから睨まれ怒られてましたね。
買い物でも、1人1つまで、1家族1つまでとなればきちんと守ってましたし、
何より買い占めなんてことを誰もしないんです。
今必要なものを必要な分だけ買っていくんです。
首都圏などでは買い占めが問題になっていましたが、
やはりみんな、きちんとわきまえてるんだなと感心しました。

・・・ま、そもそも買い占めるような商品ないんですけどね。








それではお休みなさい。明日はガイダンスですー。みんなに会えるのが楽しみだ。

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こんばんは。紫遠です。

なんだか暇です。今日1日だらだら過ごしてしまいました。
明日こそは掃除したりしよう。そうしよう。



さてさて。忘れないうちに被災3日目の日記でも書きましょうかねー。



3日目


朝6時過ぎの頃に起床。キッチンに置いた石油ストーブでお湯を沸かしたりする。
朝食は前日の残りであるホットケーキと餅。
電子レンジが使えないので、カセットコンロとフライパンで温めた。

朝、朝刊が前日の分と一緒に届いた。
1面には津波によって流され、がれきの山と化した町の写真が大きく載せられており、
私はそれを見て初めて、被害がどれほどひどかったのかを知った。
私たちも被災者だけれど、もっとひどい被害を受けた人たちがいるんだということを知った。
とても、怖かった。

姉は前日同様、朝から炊き出しの手伝いへ。

朝食後は屋根の瓦の片付けおよびシート張り。
まず、父がハシゴで屋根にのぼり、ロープにつないだバケツの中へ割れた瓦を入れて下ろし、
下で私や妹が受け取って中身を捨てる、という作業を繰り返した。
瓦はどうやら2階の屋根から落ちた瓦が1階の瓦を割ってしまったようで、
1,2階ともにあちこちで瓦が割れて無くなってしまっていた。
損傷部分がきれいになった後、瓦の無い部分に合わせてシートを切り、
周りの瓦の下に埋め込むようにしてシートを入れた。
安全のため、そして装備のために屋根には父しかのぼれず、
父が屋根の上で作業しているのを私たちは下から見守ることしかできなかった。

また、母が手洗いで下着や靴下、タオルなどを洗ってくれた。
私はそれを庭に干した。1人暮らし3年目にして母から干し方のダメ出しをされた。

昼食は土鍋で炊いたご飯。ふりかけや梅干しで食べる。おかずは無い。

昼食後も屋根の補修が続いた。
午前中は1階部分の屋根だったが、午後からは2階部分の屋根の補修。
父はヘルメットと命綱を着け、ハシゴをむりやり2階のベランダにくくりつけて屋根にのぼった。
午前中にも午後にも余震が続く。父にとってはとても危険な作業だったが、
次の日から雨が降る予報が出ていることに加え、
次の日には父も出勤しなければならなかったため、
本日中になんとか屋根にビニールシートを張らなければならなかったのだ。

しかし父の持っている道具の多さには驚かされた。
ヘルメット、ロープ、長靴(滑り止めのもの)、シート、よくわからない金具。
屋根にのぼるために使ったハシゴも業務用脚立もまず一般の家には無いと思われる。
こんな父でよかったと私や母が階下からほめていたのを父は知っていたのだろうか。

今水道管にたまっている水もいつ出なくなるかわからなかったので、
母が浴槽をきれいに洗い、浴槽に水を溜めた。
溜め終わっても出るようだったので、それ以上出さずにそのままにした。

午後5時。夕食は土鍋で炊いたご飯に、つみれ汁。
つみれは冷凍してあったもので、停電により溶けてしまったので使用した。
熱々の汁物をすすると、とてもホッとした気分になれた。

午後6時過ぎ。辺りは真っ暗に。誰かが「街に電気が来てるよ!」と言った。
姉妹3人で2階の窓から街を見下ろすと、ネオンや信号の光が見えた。
きらきら光る街。普段見慣れていたはずなのに、このときばかりは感動した。

街が、戻ってきた。

午後8時ごろ。姉が目の前にあったDVDプレーヤーの画面がついたことに気がついた。
照明のスイッチを入れると、明かりがついた。電気が復旧したのだった。
さっそくテレビをつけると、どのチャンネルも津波の被害を伝えていた。
新聞を見ても驚いたが、映像で見るとよりその惨状がわかる。ゾッとした。

父も姉も次の日は出勤なので、せめて2人だけでも、と風呂を沸かした。
我が家のボイラーはガスではなく灯油なので、電気さえ使えれば風呂は使える。
父と姉、そして妹が風呂に入ったが、私の番が回ってくる頃には私は寝てしまっていた。





3日目はこんな感じでした。・・・そろそろつまらなくなってきたぞ内容が。

4日目以降はこんなに書かずにかなり省略すると思います。
多分そのうち日にちとか分けずにまとめみたいにして書くと思います。





補足をいくつか。

水が出ないので風呂もトイレも使えませんでした。
トイレは使ったあと流さずに溜めて、ある程度になったら一気に流してました。
我が家には浄化槽があるので、まぁ少しぐらいながしても大丈夫か、と。
しかしトイレに入って便器の中がキレイでないというのは、なんとも嫌なものでしたねー・・・
血のつながった家族なんだから、と言われても、ねぇ・・・

新聞の記事には、便座の中にビニール袋を張り、水分を吸わせる紙類を入れ、
その中に用を足して、ビニール袋を取り外してゴミとして処理するというやり方が紹介されていました。
なるほどこれはいい方法だと感心してましたが実践はしませんでした。
テレビに出ていた専門家は、「バケツに水をくんで流せ」と言っていましたが、
言わせてもらうと流す水がもったいなくて使えないんですよ。バケツ一杯の水なんて・・・

まあ飲用水じゃない水は手に入れやすいのでなんとかなるのかもしれませんけど。
避難所が学校であれば、プールの水が使えるだろうし。
我が家でも、鉢植え用に雨水を大量に溜めてるのでそれが使えましたし。
地域の人たちは近くを流れる川へ水を汲みに行っていたそうですよ。

風呂ですが、服や下着は2日に1回程度取り替え、
こまめに制汗シートで体を拭くようにしていました。
しかし夜には気温が氷点下になる時期に制汗シートを使うのはなかなか辛かったですよ。
アルコールのせいでとにかく冷たかった。肌に触れた瞬間びくってしますからね。

髪は本当にひどかった。1番どうしようもなかったですし。
頭皮の脂はあぶらとり紙を使ってこまめに除去するようにはしていましたが、
それでは髪のべたつきは取り除けないので。
髪って、べたつきを通り越すとぱっきぱきになるっていうことを初めて知りました。
脂が乾燥するのかなんなのか。脂なのに乾燥するってどういうことか分かりませんが。
本当に髪がぱっきぱきになるんですよ。びっくりですよ。もはやべたつかない。固まる。

アパートにある「水のいらないシャンプー」が手元にあったならと恨みましたよね本当。
高速バスが復旧したと聞いたときには、アパートまで取りに行こうかと思いましたしwww


思うのが、被災したのが真夏でなくてよかったな、ということ。
汗で体臭がひどいことになるだろうし、水が貴重な中飲み水を多量に摂取するのも難しいし。
なにより津波の地域で赤痢とか発生しちゃう恐れもありますしね。

もちろん、起こらないことが一番ですけどね。
・・・起こらないのもそれはそれで怖いのか。







それではお休みなさい。

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こんばんは。紫遠です。


昨日書いた1日目の日記を見た枸からとても嬉しい感想をいただいたので、
2日目以降も張り切って書いてみようと思います。




2日目


寒さと恐怖と眠れなさのトリプルパンチで辛い中、日にちが変わった。
何もできないまま、ただ夜が明けるのをひたすら待った。
こんなにも時間は過ぎるのが遅いのか、と時計を呪った。

深夜1時頃、父が帰宅。
父は原子力関係の仕事をしているため、施設の確認をしなければ帰宅できなかったのだ。
さらに停電により信号が点かず道路は未曾有の渋滞。
道路には亀裂が走り、段差を無理矢理乗り越えて帰宅してきたらしい。
父は自分の車に毛布を持ち込み、一人で夜を過ごすことになった。

その後深夜2時頃までの記憶はあるが、後は覚えていない。
私はいつの間にか眠ってしまったらしかった。

朝6時半。目を覚ますと辺りはすっかり明るくなっていた。
こんなにも夜明けが嬉しいことがあっただろうか。

車から降りると、父が車庫にカセットコンロやテーブル、イスを持ち込み、
コンロでお湯を沸かしていた。
父はあの後一睡も出来ないまま夜明けを迎えたのだそう。

一晩経ち余震も続く中ではあったが、家がどうやら大丈夫そうだと判断し、
カセットコンロをキッチンへ持ち込み、朝食の準備をすることになった。
私がキッチンへ入ると、水の入った鍋やペットボトル、バケツなどがたくさん置いてある。
どうやら実家は近所の家よりも低い位置にあるため、
大本の太い水道管に残っている水が流れ込んでいるらしく、
現在水道管にたまっている分だけは使えるらしかった。

朝食は前日に炊いたごはんを炒めて作ったチャーハン。
カセットコンロの火力では充分に炒められないのでべしゃべしゃだった。

補足。我が家のガスはプロパンガスなのでガス自体は使えるはずだったが、
コンロでの着火が電気によるものなので、電気が回復しなければコンロは使えない。
着火をチャッ○マン(正式名称は知らない)で試したがダメだった。

午前中は家の中の片付け。倒れたタンスを戻したり、散らかったものを片付けたり。
また、前日に母の車へ持ち込んだ荷物を家の中へ戻したりした。
改めて家から持ち出した荷物を見てみると、いかに思考が混乱していたかがわかる。
例えばティッシュ。5箱入りの袋を4つ持ち出していたり。
絆創膏や傷薬だけでなく風邪薬や胃腸薬まで持ち出していたり。

片付けをしながら、当たり前だと思っていたことが当たり前じゃないことを思い知らされた。
手を洗おうと何気なく蛇口をひねって、わずかしか出ない水にハッとしたり。
奥の部屋で片付けをする父に対し母が「暗いね、電気(照明)つける?」と言ったり。
普段とは違うってことを改めて思い知らされた。
そしてそれに対し、これが夢であったなら、ととにかく思った。

夜を過ごした姉の車から毛布を運び出すと、毛布がびしょびしょに濡れている。
原因は結露。外は氷点下なのに人が4人も車の中にいたせいだった。
幸いなことに空は快晴だったため、物干し竿にずらりと毛布を並べて干した。
窓や壁、座席にまで垂れた水滴を、姉は神妙な顔をしてぬぐっていた。

昼食はインスタントラーメン。具はもやしと冷凍のタケノコの煮付け。

昼食後、姉は避難所の炊き出しを手伝いに出かけた。
公務員である姉は朝から気にはなっていたそうだが、なかなか出かけられずにいたらしい。
私たちは引き続き、家の中の片付けを行った。
ある程度片付けた後、家族5人分の布団をリビングにすくことにした。
リビングならば強い余震が来ても、玄関とキッチンという出入り口が近く逃げやすいからだ。
また、家族全員が同じ部屋にいたほうが互いの安全も確認しやすいというのもあった。

途中、父が車のバッテリーからコードでテーブルタップにつなぎ、
ちょっとの電気なら使えるようにしてくれたので、携帯の充電をさせてもらった。
その後父がテレビのコンセントをつないだら、車のヒューズが切れた。
車の説明書を片手にボンネットを開く父の姿が寂しげであった。

午後5時。暗くなる前にと急いで夕食をとる。
夕食は朝食のチャーハンの余りとホットケーキと餅だった。
妹は1時間かけて地道に1枚ずつ、カセットコンロでホットケーキを焼いていた。

午後6時をまわると辺りは真っ暗になり、何も作業ができなくなり、
それぞれの枕元に懐中電灯を置き、布団の中に入ることにした。
なかなか眠れない。寝転ぶとより余震の揺れが感じられるせいもあった。
うとうとしては揺れに起こされるのを繰り返す。
さらに日中に毛布を干したせいで花粉が付着していたらしく、
鼻水が止まらないため余計に眠れない。
次第に喘息の発作も起き始め、鼻水と発作での苦しさで気を失うように寝た。





2日目はこんな感じですかねー。

ちなみに寝るときはすぐ避難できるようにとパジャマではなく服を着込んで寝てました。
服を着て寝るのとリビングで寝るのは数日前まで続いてました。

私がたかつき宅に泊まった日、リビングにすきっぱなしだった布団を初めてあげたら、
私が寝ていたところのフローリングだけカビてたらしいです。
それからはもうリビングで寝るのはやめようということになり、
私が帰宅すると普段のように畳の六畳間に私の布団がすかれていました。

そんな後日談。





それではお休みなさい。しばらく暇な日が続きます。つまらないなー・・・

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こんばんは。紫遠です。

昨日の夕方にアパートへ戻ってきました。
まさかこんな長期にわたる帰省になるとは思っていなかったため、
まともに掃除も片付けもしないままだったので、
もしや虫でも沸いてるんじゃなかろうかと心配してましたが無事でした。
まだ3月だもんね。寒いもんね。虫が活動するにはちょっと早いもんね。安心。



さて。震災の日から半月ですね。
あまり時間が経ってしまうと私の残念な記憶力はいろいろ忘れていってしまうので、
被災中に書き留めていたメモをもとに、数日間の出来事を書いていきたいと思います。

まずは1日目。「つづきはこちら」からどうぞ。

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おはようございます。紫遠です。


3月11日午後2時46分に起きた例の地震。
たまたま就活のために茨城の実家へ帰省していた私は、もろに被災することになりました。

窓ガラスは割れ、外壁にも内壁にもヒビが入り、瓦も漆喰もぼろぼろになりました。
タンスが倒れ、食器棚からは食器が飛び出し、家の外も中もひどい有様となりました。

そんな地震から早くも二週間が経過しました。
まだまだ余震が続き不安が募る中ではありますが、
現時点で私が思うことをこの被災地である茨城から書き連ねてみようと思います。



*各メディアについて*

新聞、ラジオ、テレビといったさまざまなメディアが情報を発信しています。
被災して、テレビとはこんなにも不正確なのかと思い知らされました。
専門家を名乗る人たちが、被災地ではこういった行動をすべきと言いますが、
あなた本当に現地を知ってるの?と思う言葉ばかりで呆れてしまいました。
また、今ここがどういう状況なのか、というニーズに答えられないのもテレビの難点だと思いました。

一方で、一番役に立ったのはラジオだと思います。
被災者は、今ここがどういう状況で、何が可能で何が不可能なのか、
これからどうなるのかという情報が欲しいんです。
そのニーズに答えてくれたのは、ラジオでした。
どうか、各家庭に少なくとも1台は、AM、FMともに聞けるラジオを置いてください。
ラジオがないから情報が入らないというのを言い訳にしないでください。
声が枯れ、咳払いが増えてもなお正確かつ最新の情報を常に発信してくれる、
茨城放送のアナウンサーの苦労を無駄にしないでください。

また、新しい情報発信の場としてSNSの活躍ぶりは目を見張るものがありました。
停電により携帯電話の充電ができない中、
全員の「大丈夫?」というメールや電話に返事をするのはちょっと負担があります。
そんな中でSNSに「無事です」と書けば、安否情報が知人へ一斉に伝わります。
私もSNSに助けられました。ありがとうございました。


*デマ、詐欺、悪徳業者について*

私のところにも、妹のところにも、デマの書かれたチェーンメールが回ってきました。
より混乱を招こうとするその行為に腹が立ちます。
怒りの矛先は送った人ではありません。メールを作成した張本人です。
チェーンメールを送った人は、きっと正しい情報だと思って、ためになると思って、
そんな優しい思いから回してくれたんだと思います。
その人たちの優しさを踏みにじるこの行為、絶対許しません。

メディアでも取り上げられている、義捐金を募る旨の詐欺。
それに加えて、屋根や壁の修理に高額の費用を請求する悪徳業者も横行しているようです。
我が家も屋根や壁の損壊をいち早く修理したいと思っている中なので、
もしそのような業者に当たってしまったら、という不安が募ります。
人の不幸を笑って食い物になんてしないでください。お願いします。


*ボランティアについて*

被災地にボランティアをしに行きたいという人が多いと聞きます。
しかし、行動を起こす前によく考えてみてください。
あなたに何ができるか、あなたが行くことで何がどう変化するかを。

あなたが行くことで、少ない物資の中からあなた1人分の食料を余分に使わなくてはならなくなります。
あなたが行くことで、限られた水の中からあなたの分のトイレの水を使わなくてはならなくなります。
あなたが車で行けば、残り少ないガソリンをあなたの車に使わなくてはならなくなります。
ボランティアをしたいと思うならば、あなたが生活する分以上の物資と燃料を準備してください。

また、何ができるかも考えてみてください。
地域の人々から募るボランティアも、できる仕事は限られていると聞きます。
倒壊の恐れのある建物には入れないし、特別な技能や知識があるわけでもないからです。
そんな中で、あなたには何ができますか。


*その他*

テレビが不正確だと思ったほかに、イライラしたこともいくつかあります。

例えば、某朝のニュース系番組。
「計画停電から私たちはどうやって身を守るか」という題で話をされていました。
節電のおかげで電力をわけてもらっている身分のくせに言うのは申し訳ないが、
事前に停電を予告されているたかだか数時間の停電で「身を守る」とはどういうことだ。
こちとら予告もなしに日単位で停電を食らったんだぞ。
数時間の停電で身を守らなきゃならんほどの事態なら私たちはどうなるんだ。

他にも、放射性物質が飛んでいる恐れのある地域で外を歩いた場合は、
外で着た服を脱いで「シャワーを浴びる」と報道したところもある。
シャワーが出る地域に住む人がそんなところにいるか、と思いましたね。

書き出したらきりがないのでこの辺で。





原発に関連したことや具体的な日記についてはまた後日。

一応被災してから2週間近くは毎日ノートに日記を書いていたので、
被災の記録はばっちり残っています。
それをまた改めて伝えていきたいと思います。




それでは。

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こんにちは。紫遠です。


昨日の東京でのGDを終え、そのまま実家に帰ってきました。
ゼミの引継ぎもひと段落したので、
教授からの呼び出しがあるまではしばらく実家にいようと思います。

というかできればこの先しばらく茨城での就活なので茨城にいたいっす。






さてさて。

昨日はそのGDの結果がズタボロすぎて凹んでた挙句、
かなり気になってた企業から書類選考落ちのお知らせが届き、
ダブルパンチをくらいとことん凹んでました。

ご縁がなかった、と簡単に片付けたいところではあるのですが。

前者のGDでは、グループの中で私だけ違う意見を出してしまい、
反論し続けるわけにもいかず、そのまま流され終わった感じでした。
2つのうちどちらかを決めるような議題だったのもあって、
妥協点を見つけるわけにもいかず、私どうしたらいいの・・・とorz

議論を進めていくうえで、私の弱点も見えてきました。
私、人一倍頭の回転速度が遅いんです。
日本語を理解するのに時間がかかるというか、噛み砕けないというか。
「この意見に対してどう思いますか」とか振られても、
自分の意見を出す前にその前の意見を理解しようとしてる間なので、
「え、え?」って感じで次の言葉が出てこないんですよね。
「しばらく考えさせてください」を連発するわけにもいかないし、
いったいどうすればいいのやら。

そういうのってやっぱり経験の差なんでしょうかねー・・・
はぁ・・・これから先が思いやられるわー・・・。



ちなみに後者は会社説明会の時点で、
遠まわしに「男性を雇いたい」と言われてたようなものなので仕方ないかな、と。
女は工場のあるようなメーカーだと役に立たないんだってさ。力仕事できないし。
これは本当にご縁がなかったのだと諦められる気がします、うん。





そんなこんなで昨日は凹みまくって、なかなか寝付けなくて、
やっと眠れたと思ったらここ数年で一番のホラーな夢を見てさらに凹みました。
あれだよね、人形って怖いよね。夢の中の人形はまじでホラー極まりなかった。

そんな夢からの目覚めで今日も一日暗いのかなーと心配してたら、
履歴書に印鑑押し忘れた企業から次の選考の連絡が来ましたwww
ちょwwwおまwwwいいのかwwww精一杯やらせてもらうぞwwwwww

というわけで週明け2連続の面接を終えたら、1社説明会、1社面接で3月は終わりです。
すっくな!私少ないな!これで本当に就職できるのか私!




いろいろがんばります。はい。








それでは。景気づけに父が借りてきたDVDを見ようと思います。

実家帰ってきたら映画ばっかり見てる気がする。春休みだけで何本見たよ私・・・

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こんばんは。紫遠です。

なんだか最近は実家とアパートの行き来のしすぎで不思議な感覚です。
実家が近いというか、アパートでの生活が遠のいたというか。




さてさて。

この記事の投稿は、ついに手に入れたmyノートパソコンからの初投稿となります。
今ベッドに持ち込んで、枕の上に乗っけてかたかた打ってます。

なんでハニーがいるのにノート買ったのかという話ってしたんでしたっけ?

えっと、これから卒論を進めていくうえで、研究室での作業なら自分用のが無ければ不便と思ったり、
また研究の都合上、もしかしたら1ヶ月ぐらい徳島県に滞在せねばならなくなるやもなので、
そういったときにも持ち歩けるパソコンが必要なんじゃないかと思った次第です。

意外にも相談したらあっさり買ってくれた両親にびっくり。
かなり安いしね!15インチでCPUも新しいのなのに6万弱でした。
まあその代わりにオフィスシリーズ入ってなかったけどね!www





そんな卒論ですが、一応先輩たちからの引継ぎは今日でひと段落しました。
研究としてはとても面白そうだし早くやりたいぜわきわきって感じなのですが、
いかんせん担当の教授がゲフンゲフンなのでそれだけが心配です。

はぁ・・・実家帰ってるときに「明日ゼミやるから!」とか連絡くるんじゃないかとガクブルですよね・・・

枸と1年間、頑張って乗り切らなきゃですよ。がんばろー。








それから、就活のほうですが。

ESや履歴書を書きまくる毎日は終わりまして、次は選考ラッシュです。
今週に1件、来週に2件というのはかなり少ないほうだとは思いますが、
私としてはもうどうしようどうしよう多いよ準備大変だよとテンパるほどですあはは。

今のところ書類選考で落とされたのはたったの1社。
他は結果待ちを除き、次の選考に進んでおります。
なんていうか、非常にありがたい。あんなESでいいならばんばん書くよ。


実は、就活に関して、実家を経由したり両親に送迎その他を頼むことも多々あるため、
さすがに両親に何も教えないわけにもいかないと思い、
私が今就活している企業のデータ(企業名、事業内容、選考の進み具合)一覧を渡してあります。

さすがに「あの会社どうなった?」とかいちいち口を挟んでくるのにはうんざりもしますが、
親の手を借りる以上そんな文句も言ってられないと思い、なんとか受け入れてます。

次の帰省のときは改訂版を渡さなきゃ。だいぶ変わったしね。





そんなこんなで明日と明後日は暇なので、選考が進んだ企業の研究やら自己分析やらしようと思います。

あーあ・・・早く就活終わらせたい・・・。







それではおやすみなさい。

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